郷土の偉人たち

近江聖人 中江藤樹

中江藤樹については コチラをご覧ください。


幕末の志士たちに大きな影響を与えた 浅見 絅斎(あさみ けいさい)

平成23年(2011)に没後300年をむかえた浅見絅斎は、中江藤樹が亡くなって4年後の承応元年(1652)に新旭町太田で生まれ、名を安正、字を重 次郎と言いました。 京都で医学を学び、26歳ごろ晩年の山崎闇斎に従学し、佐藤直方や三宅尚斎と共に崎門三傑と称されました。

清貧窮乏でありましたが志を曲げず、貞享元年(1684)に執筆を開始したのが、やがて勤皇の志士のバイブルともなった「靖献遺言(せいけんいげ ん)」です。 これは中国の忠孝義烈の士8人(屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺)の評伝であり、貞享四年(1687)に8巻が完成し、刊 行されました。 これは幕末に広く読まれ、志士たちに大きな影響を与えたといわれています。

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貞享三年頃から、絅斎に入門する者が増え、京都の錦小路に住んでいたので、錦陌講堂と名づけた塾を開きました。 この塾とは別に、元禄二年(1689)からは、東山の亭や寺を借りて、東山会と証する特別講義を行うようになりました。正徳元年(1711)末に59歳で 死去するまで、多くの著作を残すとともに、弟子の養成に尽くしたと言われています。亡くなるまで門人に教授し、その講義の内容は弟子たちが記録した「師 説」と称される筆記類に残されています。

絅斎の墓所は京都鳥辺山にありますが、郷土の新旭町には彼の遺徳を偲び大正13年に絅斎書院が建立されました。 そして昭和51年末に新旭町区長会に諮ったうえで、翌52年に保存会が誕生し顕彰にあたっています。

琵琶湖治水に親子三代にわたって努力した 藤本太郎兵衛

 琵琶湖は太古の昔より瀬田川一本の排水路のみで、周辺の村々は、重なる水害に悩まされていました。 江戸時代後期、深溝村(現高島市新旭町深溝)の庄屋藤本太郎兵衛は、琵琶湖治水の難問と湖辺農民を苦しみから救いたいと立ち上がり、親子三代、50年をか けて、瀬田川川ざらえのため各組織に嘆願、自らの財産もつぎ込み尽力、ついに天保二年(1831)に幕府から許可が下り「天保の御救大浚(おすくいおおさらえ)」と呼ばれる大事業を成し遂げました。

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そして月日は流れ、琵琶湖総合開発事業の終結は平成9年(1997)8月7日。 初代太郎兵衛から二百余年の歳月の末、完結しました。

「ひとりはみんなのために」の心意気で、不可能とも思える治水事業に果敢に取り組んだ太郎兵衛。 藤本太郎兵衛の業績をたたえた銅像は、平成6年に地元の彫塑家川原林たまさんによって制作され、地元民の手で建立されました。場所は新旭風車村付近の湖岸。琵琶湖を背に凛々しく立っています。

マキノ西浜の石積みを築いた 西 与一左衛門

 平成20年3月28曰、「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」が国の重要文化的景観として選定されました。 現在、この海津・西浜には約1.2kmにわたって続く高さ2.5m前後の強固な石積みがあり、琵琶湖の大波から集落を守ると同時に、綺麗な水辺空間を形作っています。

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この石積みは、元禄14年(1701)に西浜村に就任した甲府藩領代官の西与一左衛門が、大波によって度々石垣が崩れて苦しむ村人達に同情し、幕府の許可を得て元禄16年(1703)に強固な石垣築造を成し遂げたものです。

西与一左衛門は5年間代官として西浜村で仕事をしましたが、民情に厚く、石垣築造の他にも荒れ地の田租を免除するなど数々の仁政を施したことから村人から慕われ、今も毎年3月15日に法会が営まれています。

巨大百貨店グループ高島屋創業のきっかけを作った 飯田 儀兵衛

 享和3年(1803)に高島郡南新保村(現・高島市今津町)に生まれた飯田儀兵衛は、江戸時代の終盤 京都で米穀商を営んでいましたが、高島郡出身であることから「高島屋飯田儀兵衛」と名乗りました。 その娘婿の鉄次郎(初代飯田新七)が古着・木綿商を始め、本家と同じ高島屋を冠した「高島屋飯田呉服店」と称し、1919年には株式会社 高島屋呉服店としました。 これが巨大百貨店グループ高島屋創業の謂れです。

旧制今津中学校(現・高島高校)が設立された際には、高島屋から多額の寄付を受けた他、昭和48年の高島屋創業150周年には財団法人高島屋奨学金高島育英会が設けられ、今も高島市の多くの若者達がこの育英資金を受けて学んでいます。

 医療活動に心血を注いだ 高島玄俊

 文政元年(1818)に朽木宮前村で生まれた高島玄俊は15才頃に仏門に入りましたが、天保4年(1833)から4年間続いた天保の大飢饉により、毎日多数の飢餓者を目にして医術を志しました。

讃岐国丸亀藩(現・香川県)で漢方を学び、天保7年(1836)からは京都で西洋医学にも通じました。 その後、玄俊は見聞を広めるため中国地方や九州方面に出発し、府内藩(現・大分市)で安住の地を見つけて開業した時には、列が出来るほど人が集まったと言 われています。

貧しい人からは薬代を取らす、困っている人には金品を与えるほどでした。 その努力によって府内藩で10年目に藩の医事監格になり藩医として活躍しました。

遠く大分の地で民生福祉に尽くした玄俊の偉業を讃え、朽木宮前坊の生家跡地には顕彰碑が建てられています。 また、高島の姓は、高島郡出身であることから府内藩で名乗ることを許されました。

 扇骨産地の基盤を作った 井保寿太郎

 安曇川流域の地場産業として発展した扇骨生産の起源については諸説あるようですが、徳川五代将軍綱吉の頃に太田(現・新旭町)の長谷川玄斎が安曇 川の氾濫を防ぐ水防と扇子生産の為に良質の竹を植えたことが史実として残っています。 その後、戸島忠兵衛がこの竹林に目を付け農民の仕事を確保する為に扇骨業を広めました。

幕末の頃、西万木生まれの井保久吉が尾張から高度な扇骨生産技術を導入して生産性の向上を図り、更にその甥の井保寿太郎が工場での一貫生産を行っ て京都や大阪に販路を拡大しました。 彼は、扇子を日英博覧会に出品するなどの努力も行い扇骨産地の安曇川としての基盤を確たるものとしました。

 淡海湖を造り水を確保した 松本彦平

 高島郡川上村(現・高島市今津町)の酒波・伊井・平ケ崎・構集落は水田が少なく、干ばつに苦しんでいました。 川上村平ケ崎に生まれた松本彦平は、濯漑用人造湖である淡海湖を築造し隧道(トンネル)を掘って水を確保するという難事業に取り組みました。

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大正3年には淡海耕地整理組合を設立し初代組合長となり、事業のとりまとめと資金調達に奔走しましたが、隧道は工事途中で崩落するなど工事は困難 を極めました。大正4年暮れ、ようやく隧道が貫通しましたが、彦平は工事の完成を見ることなく大正8年に他界し、その意志は長男彦五郎に受け継がれ、大正 12年に全事業の完成をみました。

 北方探検家の 近藤重蔵

 寛政10年(1798)以来5回に渡って蝦夷地のクナシリ・エトロフ両島を探検した近藤重蔵(号は正斎)は高島出身ではありませんが、長男富蔵が不始末を犯したことから親の監督責任を問われて、大溝藩分部家にお預けの身となりました。

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大溝に幽閉されてから3年目に亡くなりましたが、その間、大溝藩士の師弟を集めて講義をしたり、共に近江の植物年鑑誌にあたる『江州本草』30巻(現在は行方知れず)を著しました。

明治44年、探検の功により正五位を贈られ、「近藤正斎全集」三巻(国書刊行会)が刊行されました。重蔵の足跡を示す遺品は、高島歴史民俗資料館に大切に保存されています。

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