大溝城と城主織田信澄

【室町・安土桃山・江戸 時代・近代】


大溝城築城

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全国統一を目指した織田信長は、安土に壮大な城を構えた時、更に、琵琶湖の対岸高島の地に「大溝城」を築かせ、安土城・坂本城・長浜城のネットワークで琵琶湖を固めようとした。

高島一郡は天正元年に信長から磯野員昌に与えられ、新庄城(新旭町)を拠点に、領国支配をすすめていったが、員昌の養子信澄が、信長から員昌の跡 職を宛行われたのは、天正6年2月3日のことである。 しかし、それ以前の信澄については明らかでないが、天正4年12月10日、船木・朽木の材木商人衆に対して、朽木谷材本の独占的取扱いを承認し、同5年7 月3日には、横江村(安曇川町)の崇善寺に対し、「当寺三屋敷之儀、如二先々不可有相違候」と三屋敷の領有を認めている。また、信澄が高島郡内の今津(今 津町)より南を知行し、今津より北を磯野員昌の隠居領としたことも書状にみえる。 信澄が養父員昌にかわって、その地位を確立しつつあったことが想像される。

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この大溝城は、明智光秀の縄張り(設計)と伝えられ、琵琶湖とその内湖(乙女ヶ池)を巧みに取り込んだ水城(水辺の城)であった。

城主信澄は、信長の弟勘十郎信行(信勝)の嫡男で、幼名を坊丸・七兵衛といった。 父信行は、領地横領の罪で信長に謀殺されたが、遺児になった信澄は、織田家の家臣柴田勝家の元で養育された。

『寛政重修諸家譜』(江戸幕府が編さんした武家系譜の集大成)によれば、永禄7年(1564)正月、元服して「津田」の姓と、尾張国川西(愛知県西部)の地を信長より賜り、蝶の家紋の使用を許された。

そして、領国支配に尽力するとともに、信長の側近として、また、遊撃軍団の一つとして活躍を見せた。 同9年2月の天覧馬揃えには、織田一門衆の5番目に進むまでに地位を上げている。

10年5月、信澄は、織田信孝(信長の三男)の率いる四国遠征軍の副将として、住吉に着陣して出撃待機中の6月2日早暁、本能寺の変が勃発した。 「光秀謀反」の報が陣中に伝わると、光秀の女婿であることから信澄は否応なく敵方に立たされた。 信澄が岳父光秀に呼応して蜂起することを恐れた信孝は、丹羽長秀と謀って6月5日早朝、大坂城二の丸千貫櫓にとどまっていた信澄を襲撃し、不意をつかれた 信澄は、多勢に無勢、遂に自害して果てた。

 大溝城と高島

  現在残っている大溝城の石垣は、裏山の通称[石きり]の石が使われたと打下村(現高島市勝野)の伝承にある。 また、大工仕事については、音羽村(現高島市音羽)の大工棟梁、村谷家の古文書に「織田七兵衛(信澄)様高島御知行の砌…」とあり、ともにこの土地の 石工や、大工の手が加わっていることが伝わっている。

また、信澄時代の大溝城を描いた「織田城郭絵図面」にある家臣21名の中には、朽木、永田、多胡など在地有力者の名があり、信澄はこれらの武将を従えて「織田軍団」として信長に仕えていた。

高島町教育委員会が、昭和58年(1983)に行った調査の結果、本丸跡から安土城の瓦と同型の瓦が出土した。 信長の居城と同型の瓦が出土したことで、この城が織田一門の城であることが改めて確認されたのである。

近年、「大溝城主織田信澄顕彰」の声が挙がり、平成11年(1999)6月、信澄入封の際に新庄(現新旭町新庄)から大溝に迎えた大善寺境内に慰霊碑が建立された。

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出典:図説 高島町の歴史 平成15年 高島町発行

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