織田信長の朽木越え

【室町・安土桃山・江戸 時代・近代】


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尾張国の戦国大名織田信長は、応仁の乱から1世紀間続いた戦国乱世を平定し、全国に号令し ようとした。 三河国の徳川家康と同盟を結び、美濃国の斎藤龍興を降伏させると、永禄11年(1568)には近江の六角氏を破って京都へ入り、足利義昭を13代将軍にた てて政治の実権を握った。 しかし、間もなく両者は対立することとなり、義昭は越前国の朝倉氏や湖北の浅井氏と手を組んで信長を倒そうとした。

元亀元年(1570)4月20日、信長は羽柴秀吉や徳川家康ら3万余の軍勢を率いて、朝倉氏を攻めるために京都を出発した。 坂本(大津市)や田中(現高島市安曇川町)の城に宿泊した後、九里半街道を通って敦賀に進攻し、朝倉氏の前線基地であった手筒山城・金ヶ崎城・疋壇城を陥 落させた。そして、ここから軍を北上させ朝倉氏の本拠一乗谷に向かおうとしていた矢先、妹婿であった湖北の同盟者浅井長政が突然に朝倉氏方につき、信長軍 を北と東からはさみ打ちにしようとした。

27日、信長は京都への撤退を決意すると、わずかの兵をつれて丹後街道を南下し、保坂(現高島 市今津町)から朽木街道に入った。 その際、朽木の領主朽木元綱は、信長の領内通過を認めただけでなく、手厚く接待した。 この結果、信長は葛川(大津市)・大原(京都市)を経て、30日には清水寺まで無事に帰還することができた。

また、信長軍の最後尾にいた秀吉と家康も、朝倉軍の追撃をかわしながら京都まで撤退した。 この時、秀吉は木地山を越え、家康は針畑を越えたといわれている。

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信長の隠れ岩(高島市朽木)

信長はなぜ京都への退路に朽木街道を選んだのか。 推測されることとしては、当時小浜から南は、守護武田氏の一族で信長に敵対する武田信方や大飯の石山城主武藤友益が押さえており、琵琶湖方面は浅井・朝倉 の手が回っているものと予想できた。 したがって、脱出口としてはただ一つ朽木街道を残すのみであったことである。 また、この街道を掌握していた朽木氏は、室町幕府に対して永年にわたり忠節をつくしてきた奉公衆であり、この時点での信長は表むきには将軍足利義昭を支持 する者と見なされており、両者の利害は一致していたからだと考えられる。

信長の朽木越えの様子については、朽木氏の家臣であった長谷川 家に伝わる「長谷川家先祖書」によると、「28日、信長公は保坂より朽木越えの街道に入り、慕谷を通行されました。その時、朽木河内守元綱公が警護の兵を 召しつれて道案内をされたので、信長公は無事に下市の圓満堂に着いて休息され、元綱公より接待を受けられました。その際、隣家の長谷川惣兵衛茂元(茂政) がお茶とお菓子を献上したところ、信長公ははいていた鹿皮製のたちつけ(はかまの一種)と銀製の箸一対をくださいました。当家では今日まで家宝として持っ ています」(意訳)と記されている。

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出典:朽木村史(通史編/平成22年 高島市発行)

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