白鬚神社 と 白鬚信仰の発展

【古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉】


近江の国の地主神とされる比良明神が、鎌倉時代中ごろには白鬚明神とよばれてくるが、それにともない、この神は近江国にとどまらず、ひろく信仰さ れるようになった。たとえば、鎌倉時代後期ごろから次第に舞われてきた曲舞の中に、この白鬚明神かうたわれ、それが観阿弥によって猿楽能に取り入れられる のである『申楽談儀』。これは、猿楽に曲舞がとり入れられた最初とされ、のち謡 曲「白鬚」として編曲されることになる。ちなみに、そのあらすじは、時の天皇が夢告によって、白鬚明神に勅使をさしむけ参拝さすと、明神が老漁夫の姿であ らわれ、比叡山が仏法結界の地となった由縁を語って社壇に入ったが、のち天女・竜神をつれてあらわれ、舞をまって奇特を示し、天皇の御代を祝福するという のである。能の曲目の中でも神物として尊ばれた。

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さらに注目される のは、白鬚明神の勧請・分祀が各地で行われていることである。現在、白鬚神社を分祀したとされる神社は、山形・東京・神奈川・福井・京都・和歌山・島根・ 高知・大分・福岡などの各県にひろがっており、約150社を数える。しかも、その多くが慶長年中(1596ー1615)以前の分祀を伝えている。

また、鎌倉時代以降中世を通じて武将たちのあつい崇敬をうけている。建久元年には源頼朝が鰐口を奉納し、寛喜3年近江国の守護、佐々木信綱が社殿を改造 し、神領を増加した。天文9年(1540)には、佐々木義賢が社殿を造営するとともに、一族郎党が各々稲三斗と200貫の軍役を寄進し、流鏑馬と万喜社楽 とを挙行して武運長久を祈ったという。同23年6月、将軍足利義輝が関白二条晴良とともに参拝し、弘治3年(1557)にも再度参拝した。永禄9年 (1566)足利義昭も参拝におとずれたと伝えている『社記』。

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慶長6年(1601)3月、関ヶ原の戦に勝利をおさめ、覇権をにぎった徳川家康は、大久保長安に命じて当社に禁制を出している。慶長8年にいたっ て、豊臣秀頼によって社殿をはじめとし、鳥居・境内末社・御供所等が改修・整備された。現社殿が、このときの建築であることは、棟礼によって明らかであ る。本社殿の棟礼は二枚残されているが、その一枚には、

抑当社江州白鬚大明神御再興之願主豊富朝臣秀頼公、其時任内府慶長八年六月十一日柱立、同 十三日棟上、鳥居、伊勢両宮、八幡三所、若宮、地蔵堂、御供所拝殿己上九箇所御建立、同廿四日御遷宮 御奉行片桐市正、同作事雨森長助直正両人、當国浅井 郡小谷所生也。大工播州書写山坂本住人藤原朝臣輿三兵衛、神主惣左衛門久次勤之。別当山門本院南谷浄教法印実善とあり、造営の様子を知ることができる。これによると、作事奉行に雨森長助・直正両人があたり、播磨国書写山坂本(姫路市)の住人、輿三兵衛が大工 として、慶長8年6月11日立柱、同13日上棟、24日遷宮した。そして、このとき同時に、鳥居をはじめ、伊勢神宮の内宮・外宮・若宮等の境内末社や地蔵 堂も建立されたのである。境内末社のうち、若宮には慶長8年の棟礼がのこされており、当時の建築であることが知られ、高島町の文化財に指定されている。本 殿は、桃山時代の神社建築の特色をよく残し、重要文化財に指定されている。

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出典: 高島町史 昭和58年 高島町発行

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