興聖寺の創建

【古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉】


「興聖寺年譜」によると、嘉禎3年(1237)に佐々木信綱が曹洞宗の開祖道元に寺の建立をすすめられたことが、興聖寺の始まりであるとされてい る。 仁治元年(1240)には、京都深草の景色に似た上柏の指月谷に七堂伽藍といわれる仏堂・法堂(本堂)・三門(山門)・僧堂(座禅堂)・庫院(台所)・浴 室・東司(便所)などが完成したといわれ、永平寺二世懐奘禅師(えじょうぜんじ)が開山となった。

「朽木文書」の中には、15世紀後半以降の土地売券(注1)に「かせ(樫・柏)村のはうちゃう(方丈=住職)」の文字が、天文3年(1534)か ら同23年(1554)までに発行された6通の売券には興聖寺の書記役を意味する「伶書記」の文字が見えることから、興聖寺が朽木氏に代わって土地の買主 となっていたことが分かっている。 このことから、中世の興聖寺が朽木家の菩提所としての保護を受ける一方で、土地の買収などに関わる家政機関としての一翼を担っていたと考えられる。

なお、現在の興聖寺境内には、享禄元年(1528)に室町幕府12代将軍義晴がここに滞在して仮御所を設けていた際に造られ、現在は国の名勝とし ての指定を受けている庭園がある。 この庭園は、鶴島・亀島を配した池泉観賞式の武将庭園で、管領の細川高国らが将軍を慰めるために造ったものともいわれている。 しかし、ここに仮御所があった時点では、興聖寺はまだ上柏の指月谷にあった。

岩神村(下岩瀬)に移転してくるのは江戸時代になってからで、享保14年(1729)に岩神館の跡地にあった秀隣寺を指月谷に移して、興聖寺の七 堂伽藍を再建した。 しかし、天明4年(1784)に本堂・庫裏・衆寮・山門などが焼失したため、再び指月谷に庫裏のみが再建されたが、この庫裏も2年後に焼失してしまった。 そこで、享和3年(1803)までには岩神に再建されていた秀隣寺を野尻の現在地に移転させ、同地に本堂・庫裏・衆寮などが再建されたが、文政11年 (1828)またもやこれらを焼失してしまい、現在の本堂は安政4年(1857)に再建されたものである。

朽本荘内の曹洞宗寺院の3分の2が、江戸時代になって天台系寺院が改宗したものか、新たに聞かれたものとされるが、これは幕府および朽木氏の比叡 山勢力の再興を防ぐための政治的配慮であったといわれている。 『朽木村郷土誌』によると、幕末の興聖寺は末寺36力寺をもつとともに、朽木領内53力寺を統制する僧録司であったと書かれてあり、江戸時代を通じてその 役目を果たしていたものと思われる。

*注1 土地売券 土地を売買する際に売主から買主に交付する証文。

出典:朽木村史・通史編(平成22年 高島市発行)

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