惠美押勝(藤原仲麻呂)の乱と、勝野の鬼江

【古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉】


oshikatsu01.JPG

天平宝字8年(764)、太師(太政大臣)の要職にあった藤原仲麻呂(恵美押勝)は、孝謙上皇が僧道鏡を寵愛したために、道鏡を排斥しようとして内 乱を起こした。この乱はわずか7日間であったが、日本古代史の上では、壬申の乱(672)、藤原広嗣の乱(740)につぐ大規模なものであった。

仲麻呂の謀反計画が、事前に洩れたために、上皇に先手を打たれる結果となり、仲麻呂の一行は奈良の都を離れて急ぎ近江に向かった。自分の息子の辛 加知が国守をしている越前の国(福井県)に逃亡しようとするが、愛発関で追討軍に道をはばまれ、越前に入ることができなかった。そこで再び西近江路を引き 返し、高島郡の勝野の鬼江(乙女ヶ池付近)で仲麻呂は捕えられ、妻子一族郎党三四人は鬼江の地で斬罪に処せられた。そこで、内乱の経緯を述べておこう。

奈良時代の初期、藤原氏繁栄の基礎を築き、政権を掌握していた藤原不比等(鎌足の子)が養老4年(720)に亡くなると、その翌年には長屋王(天 武天皇の孫)は右大臣となり、さらに聖武天皇即位とともに左大臣に昇進し、藤原氏に対抗する勢力をもってきた。しかし、聖武天皇の母の宮子・皇后の光明子 はいずれも藤原不比等の娘で、天皇の外戚であったために、不比等の子である武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)・麻呂(京家)の四家は、藤原氏の勢力を挽回しようと、長屋王と対立した。

oshikatsu02.JPG

神亀6年(729)、藤原氏の陰謀にかかった長屋王は殺され、政権は名実ともに藤原氏のもとにかえった。

しかし、天平9年(737)天然痘が国内に流行し、藤原氏の四家もあいついで疫病のために倒れた。そこで次期政権を担当したのが、光明子の異父兄 にあたる橘諸兄である。諸兄は、唐から帰朝したばかりの僧玄昉・吉備真備と結んで政権を獲得した。これに対し、彼等の専権ぶりを非難していた藤原広嗣は、 天平12年9月、九州で反乱を起した。乱は2ヶ月で鎮圧されたが、聖武天皇はこの時、都に内乱を誘発することを恐れ、平城京を離れて伊勢・美濃・近江に行 幸する。その間、恭仁京(京都府)、紫香楽宮(滋賀県)、難波宮(大阪府)と遷都が続いたため、政情の混迷を深め、橘諸兄はしだいに仲麻呂の勢力に押され るところとなった。

仲麻呂は、叔母にあたる光明皇后の信任を得て、政界に進出し勢力を伸ばしていったのである。天平勝宝元年(749)聖武天皇が退位し、孝謙天皇 (女帝)が即位すると、仲麻呂は、左大臣の諸兄・右大臣の豊成をしのぐ勢いとなり、代って政治の実権は、光明皇太后と仲麻呂が握ることになり、仲麻呂体制 は確立された。

天平勝宝9年、橘諸兄が亡くなると、その子の奈良麻呂は、仲麻呂打倒を計画するが、事前に計画が洩れて失敗し、捕えられて獄死する。翌年仲麻呂 は、淳仁天皇を擁立し、正一位、太師に昇進する。しかしそれも束の間、天平宝字4年(760)、仲麻呂政権を支えてきた光明皇太后が亡くなり、仲麻呂は後 ろだてを失うことになった。

翌5年、平城京の改修工事が行われた。孝謙上皇と淳仁天皇は、この間保良宮(大津市神領町付近)に移ることになった。孝謙上皇が保良宮で病にか かったとき、道鏡に平癒を祈らせたことが機縁となって、道鏡は上皇に近づき、寵愛されるようになった。僧道鏡の登場によって、孝謙上皇と淳仁天皇との間は 悪化し、孝謙上皇・道鏡対淳仁天皇・仲麻呂との決定的な対立がはじまる。翌6年6月3日、孝謙上皇は、群臣を朝堂に集め、国家の大事と賞罰の二つは自分が 行い、常祀と小事は淳仁天皇が行うべきことを宣言した。

政権の中核を掌握した孝謙上皇は、仲麻呂政権をゆさぶり、窮地に追い込んだ。その上、仲麻呂の正妻袁比良古が亡くなり、続いて腹心の紀朝臣麻呂 (元参議)、石川年足も相次いでこの世を去った。また、仲麻呂と親交のあった少僧都慈訓が罷免され、代って道鏡が就任することとなり、彼の勢力は急速に増 大した。しかも、世相は不作・疫病・飢餓のために人民は苦しみ、仲麻呂政権は大きな痛手を受けることとなった。淳仁天皇の身辺に自分の腹心をおき挽回しよ うとするが、かえって孤立する結果となった。

そこで、仲麻呂は、淳仁天皇を謀議に誘い入れ、孝謙上皇と道鏡を追放する計画をひそかに進めた。しかし、謀反は事前に密告されたので遂に乱となっ た。緊急態勢をとった仲麻呂は、駅鈴・内印(天皇の印)と淳仁天皇を手中におさめようとするが、孝識上皇方に先手を打たれ奪回することができず、太政官印 だけを携帯して、平城京を離れ近江の国府に向かった。

上皇方に機先を制せられた仲麻呂は、息子や腹心たちが国司をしている越前・美濃の国ヘー時身を寄せるべく都を逃がれ、そこで再挙を図った。時あた かも天平宝字8年9月12日のことである。仲麻呂の率いる軍勢は、那羅山を越えて泉津(京都府相楽郡木津町)に出て、奈良街道を北に向かい、多河郷(京都 府綴喜郡井手町)に達した。近江に向かう路はここで二つに分かれている。その一つは田原道で、いま一つは宇治を通り、逢坂山(大津市)を越えて近江国には いる道である。仲麻呂は追討軍が来るには数日を要するものと目算し、多少迂回になるが、歩きやすい奈良街道をとって、第一の落着き場所として近江国府のあ る勢多(大津市瀬田)に向かって、途を急いだ。

当時、近江国は、淡海公(不比等)・武智麻呂・仲麻呂の三代にわたって固めた藤原氏の地盤であって、仲麻呂は、この時太師でありながら、近江守を兼務していた。

孝謙上皇方の日下部子麻呂・佐伯伊多智の率いる軍勢は、仲麻呂が手間取っている間に、先手を打って田原道を通り、石山(大津市石山)を経て勢多に 到着し、勢多橋を焼き払った。そして船を集めて、湖上より粟津(大津市)を封鎖し対岸に布陣した。仲麻呂は上皇方の軍陣を見て色を失った。そこで、仲麻呂 は進路を変更して、西近江路を陸路北上し、越前にはいる戦略に出た。

oshikatsu03.JPG

一方、上皇方は佐伯伊多智に命じて、塩津(伊香郡西浅井町)より愛発関へ急行させ、ここで仲麻呂の軍を迎撃した。さらに先遣隊は、敦賀に向かい、 越前国府(武生市)にはいり、国守の辛加知(仲麻呂の息子)を奇襲し、斬殺した。息子の死を知らなかった仲麻呂は、高島郡前少領角家足の邸(角野郷、今津 町北仰)にたどりつき、14日の夜はここで宿った。そこで氷上真人塩焼を帝とし、その息子の真先・朝猫を親王に列せしめたことを官符で諸国に通知すること を決めた。その夜、仲麻呂の臥屋に甕ほどもある唄石が落下したという。角家足は、仲麻呂から高島郡の鉄穴(製鉄所)の経営をまかされていた地方豪族だった ようである。

翌15日、仲麻呂は愛発関の占拠を味方に命じた。しかし、部隊の通過を予期して待機していた物部広成らのために、強行突破することがかなわず、撃 退された。そこで、いったん角野郷に引き返し、ここから船で塩津に向かった。ところが逆風にあい船を進めることができず、やむなく湖岸(西浅井町大浦付 近)に上陸、饅頭越え(マキノ町海津)で西近江路に出て、再び愛発関を突破しようとするが、伊多智らの阻止にあって果すことが出来ず、仲麻呂の軍はやむな く西近江路に引き返し南に向かった。

官軍は、仲麻呂を追走、一足早く勝野の鬼江に着き、迎撃の準備を整え、脇道に伏兵を配置して待機した。

三尾の勝野の地は、軍事上最も重要な地点で、水陸両道の要衝にあり、三尾の端山は、高島平野を横切る西近江路が見通せる上に、はるか湖上を一望のもとに見渡すこともできる絶好の監視所である(図22参照)。

oshikatsu04.JPG

DSC06246.JPG

真先(仲麻呂の第二子)の率いる部隊は、この隘路において佐伯三野・大野真木らの率いる部隊と対戦することとなった。戦いは正午ごろから4時ごろ まで続いた。兵力の少ない三野らは思わぬ苦戦をし、退却の危機に瀕した。しかしその時、三尾山の見張人が、藤原蔵下麻呂の援軍を認めて三野らの部隊に合図 した。この報を聞いた味方の軍は、勢いを取りもどし攻勢に転じた。仲麻呂の軍勢は大軍の進攻に驚いて退却し総崩れとなった。そこで真先らは、南の方の砂洲 に追い込まれたために、勝野津にある仲麻呂や氷上真人塩焼などの本隊と連絡を断たれた。兵力をほとんど持たない仲麻呂らは、船で脱出をはかっても望が薄い と判断したので、南の砂洲に上陸した。

戦機を逸した仲麻呂の軍勢は、湖岸で一夜を明かすことになった。明けて18日、官軍は水陸両道からいっせいに攻撃をかけた。仲麻呂の軍は、遂に混 乱状態に陥り、船に乗って湖上に脱出したが、彼の船は、石村村主石楯によって捕えられ、仲麻呂は砂洲に連れもどされ斬首された。時に仲麻呂五九歳であっ た。仲麻呂に従っていた妻子や官人たち34名、皆勝野の鬼江において斬刑に処せられた。ただ一人刷雄(第五子)だけは、幼時より、禅行を修めていたことを もって、罪一等を減じ、隠岐国(島根県)に流された。

こうして恵美押勝の乱は9月11日に始まり、同月18日にその幕を閉じたのであった。

出典: 高島町史 昭和58年 高島町発行

雪情報

滋賀国道事務所管内道路 ライブ画像

 

R161雪情報(詳細状況)

 

雪と暮らし(冬道ドライブの心得)

高島市の観光・イベント情報

ピックアップイベント

 

今月の見どころ


観光のお問い合わせは

 

高島市全般

 

(公社)びわ湖高島観光協会

 

TEL:0740-33-7101

 

 

マキノエリア

 

マキノツーリズムオフィス

 

TEL:0740-28-8002

 

チャレンジする高島人



滋賀県の虹情報



高島市のニュース・行政情報

Yahoo! ニュース

 

高島市役所・防災無線放送

サイト運営者情報

認定NPO法人
eネットびわ湖高島

 

〒520-1121

滋賀県高島市勝野 3003

tel: 050-3635-9231

fax: 050-3730-4827

(050 はIP電話・Faxです)

 

クリックで応援 お願いします


『NPO法人 eネットびわ湖高島』に、いいね!やシェアだけで支援金を届けられます。? NPO/NGOを誰でも簡単に無料で支援できる!gooddo(グッドゥ) ?

寄付支援のお願い

PAGE TOP