壬申の乱と三尾城

【古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉】


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壬申の乱は壬申の年(672)、天智天皇の子大友皇子(おおとものみこ)と天皇の実弟大海人皇子(おおあまのみこ)との間に皇 位継承権をめぐって、近 江・大和を舞台に約1ヶ月にわたって行われた内乱である。吉野(奈良県)に隠棲していた大海人皇子は、天智の死後、兵を挙げ、わずか30数人の手兵を従え て吉野を発った。伊賀・伊勢(三重県)を経て美濃(岐阜県)にはいり、東国への道を押えて近江に進攻し二手に分かれた。

琵琶湖の北を回った軍勢は、北陸路から西近江路にはいり、大友軍の前線基地である三尾城(高島町)を陥落させた。一方湖東を南下した軍勢は、鳥寵 山(とこのやま/彦根市)・野洲川畔で善戦し、瀬田川に迫った。二つの軍はここで最後の決戦をし、大友軍は大敗する。大友皇子は数人の従者とともに山前 (やまざき/京都府乙訓郡)で自害し、壬申の乱の幕を閉じた。

その壬申の乱については、『日本書紀』天武紀にくわしく記されている。そこで戦闘の経過をたどってみよう。

中大兄皇子が、大和から近江の大津に都を移したのは天智天皇6年(667)のことである。翌年の正月、中大兄皇子は即位し天智天皇となる。倭姫王 (やまとひめのおおきみ/古人大兄皇子の娘)を立てて皇后とした。明けて同8年10月、天智側近の藤原内大臣(鎌足)が病死した(年56歳)。鎌足は大化 改新以後、つねに天皇と生死をともにし、天皇を助け、実弟大海人皇子との間をとりもってきただけに、鎌足の死は近江朝廷にとっては大きな打撃となった。天 智と大海人皇子をとりまく関係は、これを境に次第に悪化していったとみられる。

天智後の皇位継承については、大海人皇子は皇弟であり、しかも東宮(皇太子)であったので、兄弟相続の原則に基づいていちおう後継者として決着は ついていたかに見えたが、天智の心中には父子相続だけに規定しようとする考えがあり、わが子(大友皇子)に執政権を渡すべく具体的な方策を立てた。

天智天皇10年正月、宮中において重臣たちの序列の発表があった。太政大臣に大友皇子、左大臣に蘇我臣赤兄、右大臣に中臣連金、御史大夫に蘇我臣 果安・巨勢臣人(比等)・紀臣大人がそれぞれ任命された。大友皇子は近江朝廷の責任者となった。大海人皇子が自分の立場に不安を抱き、身の危険を知ったの はこの時であった。近江朝廷が彼を葬り去ろうとしていることに強い怒りを覚えた。

その年の秋9月、天智は病に臥した。翌10月、危篤状態に陥つた天智は、枕元に弟の大海人皇子を呼んで、はじめて皇位を譲る旨を伝えた。天智の要 請に対して、彼は皇位を倭姫皇后に、皇太子には大友皇子をと進言した。そして、自分は出家して天皇の病気の全快を祈願すると答えて退場した。その日に大海 人皇子は頭をまるめて僧の姿になった。2日後、大海人皇子は吉野に向かった。この時、従うものは妃の鸕野皇女(後の持続天皇)・草壁皇子・忍壁皇子とわず かな舎人であった。時の人は「虎に翼を着げて放てり」と評したという。こうした政情の不安定な中に、天智天皇は同年12月3日死去した。

翌年(壬申の年)の5月、朴井連雄君が重大な情報を吉野の大海人皇子のもとにもたらしてきた。その内容は、近江朝では天智の陵墓を築くという理由 で、美濃・尾張(愛知県)の両国から人夫を徴発し、武器を持たせているというのであった。また、もう一つの報告がはいってきた。近江から飛鳥までの各地に 監視人を置き、また宇治の橋守によって吉野方が食糧を運ぶのを取り押さえられているという。

この重大な事態を確認した吉野方は、6月22目挙兵を決意した。重臣の村国連男依ら3人を密使として美濃に走らせ、挙兵し、不破道を押えることを 伝えた。6月24日大海人皇子は馬に乗り、妃の鵜野皇女は輿に乗り、次男の草壁皇子・四男の忍壁皇子・舎人ら30数人の手兵をもって吉野を出発、東国に向 かった。この寡兵で戦闘態勢にはいることは、彼の生涯の大きな賭けとなった。

菟田の安騎・甘羅村(奈良県宇陀郡大宇陀町)、菟田郡の郡家(同郡榛原町)、大野(同室生村)を経て隠郡(三重県名張市)にいたった。この地は大 友皇子の母宅子の出身地であるために、大海人についてくるものはなかった。翌25日未明、伊賀を抜け出そうとした時、積殖(同阿山郡伊賀町柘植)で、大津 宮を脱出してきた長男の高市皇子と合流、翌日には三男の大津皇子も大津宮を脱出してきた。伊勢の鈴鹿関・美濃の不破関を防ぐことに成功し、近江朝廷の東国 との通路を完全に遮断したのである。不破の道を重視したのは、ここは近江と美濃との国境にあって、軍事上の要衝であり、近江朝が東国に兵士を徴発するのを 阻止するのに、最も有効な手段であった。大海人軍の夜を日につぐ進撃は、順調にすすみ、その兵力は日毎に増大し、加勢するもの数万をかぞえた。大海人皇子 は不破の野上に行宮を定めた。大海人方の情報が、近江朝に伝えられると、群臣のなかには身の危険を感じて大津宮を去るもの、また大海人に寝返ろうとするも のが出て、大津方の陣営は乱れた。そこで大友皇子は次の戦略を立てた。

  1. 使者を出して東国の兵を徴発すること。
  2. 飛鳥古京の勢力を結集させること。
  3. 西国の兵士を集めること。

しかし、この計画はいずれも失敗に終った。

壬申の乱の戦闘図

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上図は『日本書紀』天武天皇元年(672)条の記述によって、大海人皇子(吉野軍)と大友皇子(近江軍)の進撃路を示したものである(一 部省略)。大海人皇子軍が先手をうって東国への道(不破関)を抑えたことが、大友皇子軍の士気を失わせる結果となった。さらに大海人皇子軍は,湖東と湖西 からの挟撃作戦に出、大友皇千軍を追い詰めていく様子が、この図からうかがえる。

7月2目いよいよ大海人方は、大規模な軍の編成を完了し、近江に向かって総進撃を開始した。近江方も軍勢をまとめ、山部王・蘇我臣果安・巨勢臣人 (比等)らに命じて、数万の兵を率い不破に向かわせた。犬上川の畔に達した時、近江軍に内紛が起った。山部王が果安・比等らに殺されるという事件である。 近江軍は前進することができず、果安もまたその乱の責任をとって自殺をとげた。この内紛で近江方の主将羽田公矢国、その子の大人等が大海人方に寝返った。 大海人皇子は直ちに羽田公矢国を将軍に任命し、近江の北方に進出させた。

7月5日、近江軍は鹿深山(甲賀山)を越え、倉歴(甲賀郡甲賀町)にある大海人軍を奇襲して敗り、その勢いをもって莿荻野(不詳、三重県伊賀町付近か)の基地を襲撃したが失敗する。

7月7日、戦いは最高潮に達した。不破関を越えて、近江に入った村国連男依の主力軍は、「息長の横河」(米原町)、「鳥籠山」において近江軍を破 り、7月13日には「安河」(野洲川)、17日には「栗太」(栗太郡)で勝利をおさめ、22目には瀬田川に迫り、東岸に陣取った。勢多橋(瀬田)の合戦で 近江軍は大敗し、逃走した。

一方、湖北に向かった羽田公矢国・出雲臣狛の軍勢は、西近江路にはいり、徒歩で南進した。高島郡には、近江朝の前線基地である三尾城」(高島町)がある。勢に乗じた大海人軍は、三尾城を攻略し陥落させた。

湖東と湖西からの総攻撃を受けた近江軍は、挟撃されて敗れ、大津宮は陥落した。最高責任者の大友皇子は、7月23日山前(やまさき)で首をくくっ て自殺する。年25歳であった。26日、直ちに将軍たちは大友皇子の首を捧げて、大海人皇子の待つ不破の本営に向かった。乱が終った約1ヶ月後の8月25 日、戦いの処置が行われた。近江方の重臣・将軍のうち、8人は斬刑に処せられた。右大臣の中臣連金は、逃亡先の浅井の田根(東浅井郡浅井町)で殺害され、 左大臣の蘇我臣赤兄、大納言の巨勢臣比等とその子、中臣連金と蘇我臣果安の子らも配流の処分を受けた。

大海人皇子が、伊勢・伊賀を経て、大和にはいったのは9月12日のことである。嶋宮(奈良県高市郡明日香村)にいったん落着き、その後岡本宮〔同村〕の南に飛鳥浄御原宮を造営し、ここを宮とした。

以上が壬申の乱のあらすじであるが、当町(旧高島郡高島町)に所在した「三尾城」について、検討を加えておこう。

まず「三尾」の地名についてみると、『日本書紀』継体天皇即位前紀に「三尾の別業」とあり、『続日本紀』淳仁天皇の条惠美押勝の乱の記述に「高嶋 郡三尾崎」が見え、『延喜式』兵部省に駅路として「三尾」が出ており、『和名類聚抄』に「高嶋郡三尾郷」の郷名としてあり、『万葉集』の歌のなかに「三尾 の勝野・三尾崎」など三尾の名が見える。三尾は、古代の高島郡三尾郷の地を指していることについては間違いないが、三尾城、がどのあたりにあったのか、い つごろ築城されたのかは『日本書紀』にもなく、その遺構もまだ確認されていない。しかし、大津京への入口を押える地点に城があったとすれば、地形から推測 して、三尾崎の背後の山(三尾山)をおいてほかの位置は考えられない。

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三尾崎(明神埼)は、西近江路が湖岸に沿って迂回している所で、崎は道だけを残して、その背後に山が迫っている狭溢な所である。その崎の頂上が三 尾山である。西近江路や湖上を一望におさめることができる監視所として、絶好の位置であり、北陸からの敵を防ぐ上からも軍事上重要な地点であったと思われ る。一説には、長法寺山が三尾城址と推定されているが、未だ決定しうる遺跡・遺物は発見されていない。

一方、三尾城は三尾郷に属したことは明らかで、この地方の豪族である三尾氏との関係が想定される。城が築かれたのは、おそらく大津に都が移されたころであろう。

出典: 高島町史 昭和58年 高島町発行

 

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