【高島市歴史散歩】磯野員昌(いそのかずまさ)と新庄城

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新旭町新庄に所在する新庄城は、天正元(1573)年7月の織田信長の高島郡攻略後、磯野員昌(いそのかずまさ)が高島郡の支配の拠点とした城郭です。

員昌は浅井長政(あざいながまさ)につかえ、六角(ろっかく)氏に対して最前線となる佐和山(さわやま)城の城主でした。元亀(げんき)元 (1570)年6月の姉川の合戦では、浅井軍の先鋒として出陣し、織田軍の十三段の備えのうち、十一段まで撃破する猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」の逸 話として残っています。

姉川の合戦後、包囲された佐和山城に7か月間籠城(ろうじょう)しましたが、やむなく信長に降りました。員昌とろう城兵は、船で高島まで移送されました。信長は員昌に対し、高島郡内の支配を命じます。この時の拠点となった城が新庄城です。

員昌は、善積荘(よしづみのしょう)と木津荘(こつしょう)の境界争いの裁定など、郡内の民政にあたるほか、元亀元年5月に千草越(ちぐさごえ) を通過していた信長を鉄砲で狙撃し、逃亡していた杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)を、天正元年9月に高島郡堀川村の阿弥陀寺(あみだいじ)で捕ら え、岐阜に送っています。

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天正年間の初め頃に、信長の甥の織田(津田)信澄(のぶずみ)を養子にし、天正4(1576)年には「今津より北」を員昌が、「今津より南」は、信澄が統治したとされています。

新庄城は、佐々木越中(ささきえっちゅう)氏が城主であった清水山城の出城と伝えられ、戦国時代には浅見氏や多胡氏が城主であったと伝えられています。

員昌が在城していた新庄城について、明治時代の新庄村の絵図には、大善寺(だいぜんじ)の東・西・北の3方に土塁(どるい/土手)や堀の痕跡と考 えられる「コの字」に囲む土地割が見られ、現在も土塁が残っています。この囲まれた空間が、新庄城の中心部と推定されています。

この方形の区画を中心として、「西手」「東町」の小字名が残るまでの間と、「二ノ丸」「三ノ丸」の地名が残るエリアが、新庄城の範囲とされています。

国道161号線バイパスに伴う「二ノ丸」「城ノ内」の発掘調査では、堀や土塁、石敷(いしじき)、井戸などが発見され、城下であった可能性が推測されました。

また、大善寺の北側の東西に伸びる道沿いには、新庄城下の町場、東側の南北に伸びる道沿いには、武家屋敷があったことが想定され、員昌によって城下町整備計画がすすめられたと推測されています。

しかし、員昌は天正6(1578)年2月、信長の怒りを買ったため、高野山に入りました。

信長は、信澄に高島郡の一郡支配を命じ、高島郡支配の拠点も新庄城から大溝城に移ります。大溝城下町の建設にあたり、新庄城下から町場の移転も行われました。

出典:高島市役所発行「広報たかしま」平成22年6月号

大善寺横の土塁(新庄城の遺跡)

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