【高島市歴史散歩】「幕末の北国海道(ほっこくかいどう)」 

●京と北国を結ぶ北国海道

高島市内を縦断する北国海道は、京と北国を結ぶ街道として人や物が多く行きかい、繁栄してきました。しかし、幕末になり政治情勢が混乱し始め、京の朝廷が政治の表舞台に登場するようになると、京都へ向かう諸大名の通行が増え、北国海道の往来は政治的な色合いを濃くしていきます。

●天狗党(てんぐとう)の乱

特に、元治(げんじ) 元年(1864)の天狗党の乱は、北国海道沿いの村々や宿場の人々にも、急激な時代の変化を感じさせる事件となりました。攘夷を主張した水戸藩の天狗党は幕府に敗れ、当時京都にいた前水戸藩主 徳川斉昭(なりあき) の子である徳川(一橋) 慶喜(よしのぶ) を頼って、上京を始めました。しかし、それに対し、朝廷を守護する役目を負っていた慶喜は、天狗党の思いとは裏腹に、朝廷から天狗党追討の勅許(ちょっきょ)を得て、鎮圧のため出陣します。

越前から敦賀へ入った天狗党を迎え撃つにあたって、慶喜を筆頭に金沢藩や桑名(くわな)藩など、京都で守護の任にあたっていた各藩の兵士が、北国海道を続々と北上していきました。このとき追討軍は、今津宿と海津宿に陣を設け宿泊しています。今津では曹澤寺(そうたくじ)を本陣とし、同行した会津藩士を合わせて、約3000名が今津と周辺の村々に分宿して滞在しました。これまでにない追討軍の迎え入れに、宿泊の前日には曹澤寺が飲み水を届け出るなど、細心の注意が払われました。この時慶喜も利用したとされる飲み水は、現在の辻川通り周辺の湧水で、今も枯れることなく湧き出ています。

●街道が時代の流れを運ぶ

その後慶喜が本陣を海津へと移した後も、今津は海津への補給基地として重要な役割を担いました。また、『高島郡誌』によると海津に敷かれた本陣には大砲が置かれ、湖上からも船が本陣を囲んで警備にあたるなど、物々しい雰囲気の中討伐の指揮がとられたといいます。慶喜は、前線に展開していた金沢藩が天狗党の浪士を召し取るまで、今津に1日、海津に8日間滞在しましたが、その間今津・海津宿や近隣の村々は、人馬の手配や宿泊の受け入れなど、多くの負担を強いられることとなりました。

また、天狗党の乱鎮圧後も、めまぐるしく世情が変化する中、北陸諸国を中心として多くの諸大名が政争の中心となった京への行き来のために北国海道を利用しました。街道の喧騒を通して、人々は時代が移り変わっていくのを感じていたことでしょう。

出典:広報たかしま 平成29年3月号

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