【高島市歴史散歩】関ヶ原の戦い 朽木元綱の決断

 
 

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豊臣秀吉の死後、徳川家康は五大老の筆頭として政権を左右する位置につきましたが、その一方で、五奉行の一人である石田三成らとの対立を深めていきました。両者の溝は至大に深くなり、ついに戦になりました。

慶長5年(1600年)9月15日午前8時、家康率いる東軍9万人と三成率いる西軍8万人が、美濃(岐阜県)の関ヶ原で、豊臣政権の主導権をかけ て衝突しました。午前中、東西両軍は互角の戦いを展開していましたが、正午過ぎになって西軍の小早川秀秋および他の4大名2万人の軍勢が東軍に寝返ったこ とで、西軍は敗れました。

この戦いには、朽木家16代目当主の元綱に率いられた朽木の軍勢600人も参加していました。はじめ、元綱は三成に味方した大谷吉継に従って北陸 道を加賀(石川県)へ向けて進軍し、一度、敦賀へ戻ってから湖北の木之本・長浜を経由した後、9月2日に関ヶ原に到着したとされます。しかし、安曇川町船 木には、関ヶ原へ向かう朽木の軍勢を舟で長浜港まで送ったという言い伝えがあり、長浜から米原市野一色(のいしき)に通じる街道は、「関ヶ原合戦」に向か う朽木の軍勢が通ったことから「朽木街道」と名づけられたと言われています。おそらく本隊とは別行動の部隊があったものと思われます。

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さて、この戦いの勝敗の鍵は、関ヶ原の南西にある松尾山に陣取った小早川秀秋隊1万5600人が握っていました。秀秋の東軍への寝返りを心配した大谷吉継 は、小早川隊を監視するために朽木元綱・脇坂安治(わきさかやすはる)・小川祐忠(おがわすけただ)・赤座直保(あかざなおやす)の軍勢4200人を松尾 山の麓(ふもと)に配置していました。正午ごろになって、家康から寝返りの催促を受けた秀秋は、松尾山を下ると麓にいた朽木・脇坂・小川・赤座らの軍勢と ともに大谷隊を攻撃しました。大谷隊が崩れ出したのをきっかけに、宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小西行長(こにしゆきなが)らの西軍主力部隊が敗れ、三 成の本隊も敗走し、午後2時ごろには東軍の勝利が決定しました。その日の夜、細川忠興(ほそかわただおき)を頼って家康に面会した元綱は、本領9595石 を安堵されると、17日には三成の居城である佐和山城の攻撃にも参加しました。

ところで、元綱の寝返りについては、藤堂高虎(とうどうたかとら)を通じて早くから約束されていたことであるという説と、戦いのなかばで初めて家康に書を送って約束したために、2万石から減封されたという説があります。

「関ヶ原の戦い」直前の元綱の所領を2万石とする書物がありますが、元綱は文禄4年(1595年)に秀吉からも高島郡9203石2斗を安堵されて おり、その内訳は戦いの後に家康から安堵された地所とほぼ同じになっています。したがって、元綱の寝返りは前説が正しく、朽木家の系譜がいうように「旧領 はそのまま下し置かれた」というのが事実と思われます。

出典:高島市発行「広報たかしま」平成20年8月号

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